UNEMPLOYED ECONOMICS

失業中で暇な人が経済学を学んでいくブログです。

『マンキュー経済学Ⅱ マクロ編(第3版)』第Ⅲ部読了

『マンキュー経済学Ⅱ マクロ編(第3版)』(N・グレゴリー・マンキュー著、東洋経済新報社)の第Ⅲ部「長期の実物経済」を読み終わったので、内容を軽くまとめておきたいと思います。

第7~9章については既にまとめたので、今回は第10章「失業」ですね。

 

 

失業には、「摩擦的失業(frictional unemployment)」と「構造的失業(structural unemployment)」があります。

摩擦的失業は「労働者が自分に適した仕事を見つけるのには時間がかかる」ことによって発生し、構造的失業は「労働供給量が労働需要量を上回る」ことによって発生します。

労働供給量が労働需要量を上回るのは賃金が均衡水準より高くなっているためであり、このような状況が起こる理由として、この教科書では「最低賃金法」「労働組合」「効率賃金」の三つを挙げています。

 

もし、世の中から失業を無くしたいのであれば、失業保険・最低賃金法・労働組合を廃止し、企業が高めの賃金(効率賃金)を支払うことをやめればいいわけですね。

しかし、このような方法が国民を幸せにするでしょうか・・・?

失業保険が無ければ、自分に適さない仕事であっても生活のために就かざるを得なくなるでしょうし、最低賃金法が無ければ、ひどい低賃金で働かされる人が出てくるでしょうし、労働組合が無ければ、労働者は企業と個人で交渉しなければならなくなるでしょう。

企業がより効率的な経営を行うために賃金を高めに維持することは、はたして悪いことなのでしょうか?

賃金が高めに維持されていることは企業の設備投資へのインセンティブを高めて、むしろ経済成長にはプラスに働くように思うのですが・・・。

 

そもそも、「労働市場において、需要と供給のバランスによって賃金が決まり、賃金によって需要と供給が均衡するように調整される」という考え方がちょっとおかしいように思います。

確かに長い目で見ればそうなんでしょうけど、ジョン・メイナード・ケインズJohn Maynard Keynes, 1883-1946)は1923年の『貨幣改革論(A Tract on Monetary Reform)』で次のように言っています。

 

But this long run is a misleading guide to current affairs. In the long run we are all dead. Economists set themselves too easy, too useless a task, if in tempestuous seasons they can only tell us, that when the storm is long past, the ocean is flat again.

(訳:しかし、この「長期」は、現在の問題に対して誤解を与える指針です。「長期的には」、私たちはみんな死んでしまいます。大嵐の時に「嵐が過ぎ去れば、海はまた静まります」としか言えないのであれば、経済学者はあまりにも簡単で無駄な仕事です。)

 

これは「貨幣数量説(quantity theory of money)」についての議論で出てくる文章なのですが、長期均衡を想定する新古典派経済学への強烈な皮肉となっています。

経済学における短期と長期は、ざっくりと「価格が均衡水準に達する前が短期」「価格が均衡水準に達した後が長期」と考えるとわかりやすいのではないかと思います。

株式市場のように価格(=株価)がただちに変動する市場もあれば、労働市場のように価格(=賃金)がなかなか変動しない市場もあります。

価格がなかなか変動しない市場については、価格が均衡水準に達した頃には状況が変化して新たな均衡水準が生まれているはずなので、永遠に均衡価格へ向かって調整中ということになってしまいます。

このような市場については、長期の枠組みで考えるのではなく、短期の枠組みで考えなければならないのではないでしょうか。

 

短期についてはケインズ経済学、長期については新古典派経済学で考えたほうがよいということなのかなと思うのですが、1970年代にケインズ経済学は否定されて、1980年にはロバート・ルーカス(Robert Emerson Lucas Jr.)が「The Death of Keynesian Economics(ケインズ経済学の死)」という文章を発表しているんですよね。

一方的にどちらかが正しい、どちらかが間違っているという話ではないような気がするので、きちんとケインズ経済学を再生させる必要があるのではないかと思います。

 

※注:2019年3月18日にAmebaブログにて投稿した記事を転載しています。

『マンキュー経済学Ⅱ マクロ編(第3版)』第8~9章読了

『マンキュー経済学Ⅱ マクロ編(第3版)』(N・グレゴリー・マンキュー著、東洋経済新報社)の第8~9章を読み終わったので、内容を軽くまとめておきたいと思います。

 

 

GDP(yield:Y)は、消費(consumption:C)・投資(investment:I)・政府支出(government purchases:G)・純輸出(net exports:NX)の四つの構成要素に分けられるので・・・


Y=C+I+G+NX

・・・という恒等式が成り立ちます。

ここで、他の国との交流がない閉鎖経済を仮定すると・・・

 

Y=C+I+G

 

・・・となり、この恒等式を変形すると・・・

 

Y-C-G=I

 

・・・となります。

この式の左辺は、総所得から消費と政府支出を引いた残りなので、「国民貯蓄(national saving:S)」と呼ばれます。

よって、左辺をSに置き換えると・・・

 

S=I

 

・・・となり、国民貯蓄と投資は等しいということになります。

総所得から消費と政府支出を引いた残りが国民貯蓄なのですから・・・

 

S=Y-C-G

 

・・・となり、ここで租税(tax:T)を導入すると・・・

 

S=(Y-T-C)+(T-G)

 

・・・となり、国民貯蓄は「民間貯蓄(private saving)」と「政府貯蓄(public saving)」の合計となります。

 

この教科書では、これらの式から「投資を増やすためには、民間貯蓄や政府貯蓄を増やさなければならない」という方向に話を持って行っているのですが、この議論がおかしいと思うのは私だけですかねぇ・・・。

もし、民間貯蓄や政府貯蓄を増やさなければならないのであれば、「民間貯蓄を増やすために、所得税を減税して消費税を増税する」「政府貯蓄を増やすために、政府支出を削減して財政黒字にする」といった結論が導き出されるでしょう。

しかし、これって正しいんでしょうか???

S=Iというのは恒等式なので、ただ単に「国民貯蓄と投資は等しい」と言っているだけに過ぎません。

ですから、ここから「投資を増やすためには、民間貯蓄や政府貯蓄を増やさなければならない」といったことは言えないのではないかと思います。

 

そもそもの問題として、企業経営者が設備投資を行うのは、誰かが貯蓄を増やしたからですか?

・・・違いますよね、将来的に利益を上げるためですよね。

国民が消費を減らしたり、政府が支出を減らしたりしている状況で、設備投資したら儲かるんですか?

・・・違いますよね、商品が売れなきゃ儲かりませんよね。

それなら企業の設備投資を促すためには、国民が消費を増やしたり、政府が支出を増やしたりしたほうがいいんじゃないですか!?

 

S=Iというのは、あくまでも結果としてそうなっているだけ・・・というか、総所得のうちの消費と政府支出以外の部分を「国民貯蓄」と呼び、総生産のうちの消費と政府支出以外の部分を「投資」と呼んでいるのですから、「総所得=総生産」なのであれば「国民貯蓄=投資」なのは当たり前のことです(汗)

つまり、「経済学上の投資」は必ずしも企業の設備投資のことではない *1 のに、「経済成長するためには、投資が必要であり・・・」という話と強引にリンクさせるから、おかしな議論になってしまうのだと思います。

 

さらに、そもそもの問題として、これは「市中銀行(民間銀行)に信用創造機能がなく、貨幣供給量が固定されている場合」なのではないでしょうか?

もし、市中銀行信用創造機能がないのであれば、投資するためには誰かが貯蓄しなければならないでしょう。

しかし、市中銀行には信用創造機能があるので、貸し出しを行うことでお金を作り出せばよいというだけのことです。

貸し出しを行った分の支払準備金が必要なのであれば、中央銀行から借り入れを行えばよいというだけのことです。

結局のところ、「貸付資金需要が増加したら、市中銀行信用創造すればよい」というだけのことなので、投資を増やすために国民貯蓄を増やす必要はないのではないでしょうか?

 

ということは、この教科書に載っている「貸付資金市場において、需要と供給のバランスによって利子率が決まり、利子率によって需要と供給が均衡するように調整される」という話は、ちょっとおかしいということになります。

中央銀行は資金供給を調節することによって利子率を操作しているのですから、国民が消費を減らして貯蓄を増やしたり、政府が支出を減らして財政黒字にしたりする必要は全くないのではないかと思います。

 

国民貯蓄と投資は結果として一致しているだけであり、投資が増えた時には国民貯蓄も増えているし、国民貯蓄が増えた時には投資も増えている。
なぜ、そうなるのかは明らかですよね・・・ただ単に、そのように定義しているからです(笑)
そこから、「投資を増やすためには・・・」といった方向に話を持っていくと、議論が非常におかしなものになってしまうように思います。

 

※2019年3月16日にAmebaブログにて投稿した記事を転載しています。

*1:例えば、商品が売れ残ると「在庫投資」として、住むために家を建てると「住宅投資」として、どちらも投資が増えることになります。

イデオロギーをブッ飛ばせ!!

前回の記事では社会民主主義について言及しているので、ちょっと政治思想についてまとめておきたいと思います。

 

現代の政治思想には、ざっくり分けて「自由主義(liberalism)」と「社会主義(socialism)」の二大潮流があります。

そして、自由主義は「新自由主義(neoliberalism)」と「社会自由主義(social liberalism)」に、社会主義は「社会民主主義(social democracy)」と「共産主義(communism)」に分かれています。

経済学との関連で言えば、新自由主義に対応しているのが「新古典派経済学(neoclassical economics)」、社会自由主義に対応しているのが「ケインズ経済学(Keynesian economics)」、共産主義に対応しているのが「マルクス経済学(Marxian economics)」ということになります。

 

そして、政治思想の傾向を二次元座標上に表したものが「ポリティカルコンパスpolitical compass)」です。

有名なのはデヴィッド・ノーラン(David Fraser Nolan, 1943-2010)の「ノーランチャート(Nolan chart)」ですが、ノーラン自身がリバタリアン自由至上主義者、libertarian)であるためか、分類がちょっとおかしいんですよね(汗)

 

・・・というわけで、私が考えているポリティカルコンパスを図にしてみました。

 

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縦軸は「個人の利益を重視/全体の利益を重視」、横軸は「経済的自由を重視/経済的平等を重視」という対立軸になっていて、だいたいノーランチャートと同じような分け方になっています。

ノーランチャートは「自由」に対する考え方で分けているのに対して、私の場合は「経済」に対する考え方で分けていると言えるかと思いますが、どちらにしろ対立軸はそんなに変わりがありません。

右上の領域には新自由主義、左上には社会自由主義社会民主主義、左下には共産主義、右下には国家資本主義や国家社会主義といった政治思想が当てはまります。

一般的には右上の領域が「中道右派」、左上が「中道左派」、左下が「左翼」、右下が「右翼」と呼ばれているわけですが、強引に一次元で表現しているので、右下が一番右に来て、左下が一番左に来ているわけですね。

右翼活動家の経歴を見ると元々は左翼活動家だったりすることがありますが、一次元で考えると一番左から一番右へ大転向したように見えますが、きちんと二次元で考えれば、右翼と左翼は「全体の利益を重視」という価値観で共通していることがわかります。

 

自由主義社会主義」という対立軸で考えると、右半分の領域が自由主義、左半分が社会主義なのではなく、右上の三角の領域が自由主義、左下の三角が社会主義となります。

つまり、本当の対立軸は「右/左」ではなくて、「右上/左下」だったのですね。

ということは、左上と右下の領域には、自由主義社会主義が混在しているということになります。

 

これを「保守/リベラル」という対立軸で理解しようとすると、まったく訳が分からなくなってしまいます。

まず、何が「保守」であるかは、時代や国によって変わります。

戦前の日本の政治は右下の領域、戦後は左上、現在は右上なので、右下の領域の人たちにとっては戦前に回帰することが「保守」でしょうし、左上の人たちにとっては戦後民主主義を守ることが「保守」でしょうし、右上の人たちにとっては市場原理を徹底させることが「保守」でしょう。

これが中国に行けば、マルクス主義毛沢東思想を今でも信奉している人たちが「保守」になるわけです。

そして、「リベラル」を自由主義という意味でとらえると右上の三角の領域になるし、社会自由主義という意味でとらえると左上の領域になるし、進歩主義という意味でとらえるともう一つ軸を追加しなければならなくなります。

先進国では、右上と左上の領域の政党で二大政党を形成していることが多いので、「中道右派中道左派」か、あるいは単に「右派/左派」といった分け方をするべきだろうと思うのですが、「保守/リベラル」といった分け方をしようとするので意味不明になってしまっているわけですね。

 

では、どの政治思想が正しいのかというと、経済的自由と経済的平等はどちらも重要だし、個人の利益と全体の利益はどちらも重要なので、どれか一つが正しいということはありません。

要するに、どれか一つの考えに偏ると良くないということです。

経済政策についても、「自由主義的な政策か? 社会主義的な政策か?」「保守的な政策か? リベラルな政策か?」などとイデオロギー的に考えるのではなく、ストレートに「その政策は国民を豊かにするのか?」と考えればよいのではないかと思います。

自由主義的な政策だろうが、社会主義的な政策だろうが、保守的な政策だろうが、リベラルな政策だろうが、国民のためになるのであれば実行すればよいし、国民のためにならないのであれば実行しなければよいというだけのことです。

 

私自身は社会自由主義を支持していますが、自分の政治思想に固執することなく様々な考え方を取り入れて、バランスよく政治や経済について考えていければいいなと思っています。

 

※注:2019年3月14日にAmebaブログにて投稿した記事を転載しています。